【悠久の大地】
私たちの住んでいる台地が歴史に登場するのは、紀元後50年から70年。「弥生時代」の後期以降のようです。記録としては景行天皇(日本武尊[やまとたけるのみこと]の父)の時代に房総半島を御狩場としていた絵図が残っています。
飛鳥時代の末期(707年頃)、文武天皇の代に、現在の宮城県以北一帯の蝦夷征討(えみしせいとう)のために2千頭ほどの野生馬をこの地に放して、軍用馬供給のための牧(まき)とし、牧士(もくし)という役職を設けて管理させていたそうです。
平安時代を迎えると、下総を中心に武士の台頭が始まり、5年にわたった下総国の「平将門の乱」では、下総牧の野馬が戦力となったようです。このころから勇猛な坂東武者は都から警戒されるようになり、鎌倉時代に至って武家政治が始まりました。
当町内のヤングボール付近の交差点あたり、旧水戸街道沿いに「新木戸」というバス停があります。水戸徳川家が江戸に上るときに通った街道でもあり、さらに日光へ向かう分岐点でもあることから、新木戸から柏神社前の柏木戸までのかつての様子が描かれた絵図が残っています。また、原野に近い地域だったため、光圀公は旅人が道を間違えないようにこの街道に松並木を作らせたといいます。
江戸時代に、当町会あたりから江戸川台付近までの7つの牧から構成される小金牧が生まれました。、徳川幕府直轄地となり、徳川吉宗の代で5つに統廃合され小金5牧とよばれ、私たちの郷土はその中で最も古い「上野牧(かみのまき)」と呼ばれていました。
それぞれの牧では、馬の脱走を防いだり馬が民家に被害を与えないように牧の周囲に野馬除土手が築かれていました。私たちの町内にも近年まで残っていましたが、宅地造成とともに消失していきました。今では一部が残っているに過ぎず、近隣では南柏駅西口の6号線を渡ったあたり(松ヶ丘)に土手が残っています。
【豊四季誕生と文明開化】
明治以前、下総国葛飾郡に属していた当地域、現在の柏の中心市街地にあたる柏村・千代田村は水戸街道沿いにありながら、宿駅ですらありませんでした。明治2年、旧幕府領の牧を開拓する事業が始まり、4番目の入植地となったこの地には豊四季という地名が付けられました。そして明治6年に葛飾県、印旛県を経て千葉県に編入されました。
明治23年。利根運河が全線通水。治水対策に優れていたオランダから、日本政府の顧問外国人技師として招いた土木技師ムルデル(1848~1901)が設計・工事を監督しました。蒸気船の運航は高い波をたてて護岸を破損させる恐れがあるとして荷の積み下ろしには艀を利用していたようです。
明治29年。主に日立鉱山の石炭輸送に利用されていた鉄道を民間利用を視野に、日本鉄道土浦線(田端〜土浦間)が開業し、柏駅が設置されました。
明治44年。東武野田線の前身である千葉県営鉄道(柏〜野田町間)が開業し、豊四季駅が誕生。写真は当時の利根運河を渡る同鉄道の汽車。
大正12年。旧北総鉄道の柏 - 船橋間が開業、現在に至る柏駅の鉄道交通が整う。写真は当時の柏駅の南側から撮影。中央奥に蒸気機関車の煙が見えます。
野田争議で並木重太郎が活躍?
大正から昭和にかけておきた、「野田労働争議」は全国的な関心を持たれました。すでに大規模に運営されていた野田醤油(現キッコーマン)は多くの労働者をこの地からも雇用してたと思われますが、従来の年給制から実質的な賃下げとなる日給支給に改めたことから組合がストに突入。会社側が福利厚生面を充実させることでいったん妥結をみました。しかし昭和2年に再び争議が勃発。会社は組合対策として労務管理機構の整備に努めるため、匝瑳郡長・ 東葛飾郡長として小作争議鎮圧に辣腕をふるっていた「並木重太郎」をスカウト。実質的な工場支配人である工場課長にすえて、争議の鎮圧にあたりました。
豊町ふるさと会館前にある大正9年建立の記念碑に「並木重太郎」の名があります。同人寄贈によるものか?
昭和3年、現在の豊四季台団地の場所に、1周が1,600メートルと地方競馬としては最大級のコースをもつ当時東洋一ともいわれた柏競馬場がオープン。その形は半円のカーブを持つ一般的な競馬場とは異なり、長方形の角を円くしたようなきつめのカーブを持っていた。
昭和5年、柏駅から競馬場までは、1キロ強の距離があることから、乗合自動車・ハイヤーが運行していました。
【昭和・町会誕生前夜】
昭和10年。鉄道網が当地に近代化をもたらしましたが、自然災害にはまだまだ弱い面も多く、特に市街地の中心部でも浸水に見舞われました。写真は現在の柏市中央1丁目のファミリーマート付近です。
昭和13年。雨水対策が追い付かず、柏駅構内も浸水害に見舞われました。一方私たちの暮らす地域ではこのころから、豊町と呼ぶようになったらしく、町名の始まりになったようです。
昭和17年頃、世界中に起こっている不穏な空気に日本も軍備を強化。首都圏の防空対策として、柏飛行場が作られました。
戦況は次第に厳しいものとなり、軍部も本土決戦を現実のものとして考え始め、B29の爆撃に備えた邀撃部隊の養成に力を入れるようになりました。
終戦間際になると、ほとんど体当たりに焦点を絞った戦闘機「秋水」の開発に躍起になっていたようです。ロケットエンジン搭載。10数分の飛行しかできない燃料タンク。数度の実験飛行も失敗に終わり実戦配備はされませんでした。
敗戦により戦争の終結を迎えた中、手賀沼に待望の県営渡し船が誕生。この頃の手賀沼は水も澄んでいて、寒い冬は凍りつく朝もあり、氷を割って船を走らせることもありました。昭和39年(1964)までの11年間で、東京方面へ向かう行商のおばさんや学生たち、たくさんの荷物を運びつづけ、人々の足として親しまれました。
いつまでも敗戦に落ち込んではいられず、地域の先輩たちはたくましく日本の再建に動き出しました。かつて放牧地だった牧を開墾したように、広大な土地を占めていた軍の施設を開墾し始めました。このような中で今の町会の前身である「豊町町会」が誕生するのです。