1st Report

小菅 ⇒ 亀有 (2018/11/11)
街道移動距離 3.4km 総探索距離 4.8km(脱線率 141.2%)

Part 1 万葉の時代は河口だった

 千住宿を出てすぐに水戸街道は途切れてしまう。大正2年(1919)から昭和5年(1930)にかけて全長22 km、幅約500 mの荒川放水路大拡幅工事が行われたため、現在の北千住側の土手から対岸にある東京拘置所付近までの陸地が消滅している。したがって今回の探検隊は、東武スカイツリーライン(旧東武伊勢崎線)の小菅駅からスタートすることにした。

 地名の由来は万葉集の東歌のなかで、
「古須気(こすけ)ろの 浦吹く風の あどすすか 愛(かな)しけ児ろを 思いを過さむ」
とあり、古須気(こすけ)が転じて小菅になったともいわれている。”浦吹く風”とは”入り江に吹く風”という意味で、小菅付近には古隅田川の河口があったとされる。古代には隅田川が国境となっていたから、武蔵国と下総国の国境の地域でもあったのだろう。小菅駅を出てすぐにある小菅万葉公園もこれにちなんで名づけられたらしい。

 そもそも小菅は政治的にも重要な意味があった場所だ。江戸時代初期には関東郡代を置き、行政・裁判・年貢徴収なども取り仕切り、警察権も統括していた。現在の東京拘置所辺りには関東郡代の伊奈忠治の広大な下屋敷(「小菅御殿」)があり、将軍家の鷹狩りの際の狩場の管理や、将軍の休息所ともなったという。

 明治2年に武蔵国内の旧幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって小菅県(こすげけん)が設置された。現在の東京都足立区・葛飾区・江戸川区および荒川区のごく一部、千葉県東葛地域を管轄した。旧代官所に小菅県の県庁が置かれたが、廃藩置県によりわずか2年半で廃止となり、東京府に編入された。

 役目を終えた広大な小菅県庁跡に、明治政府により刑務所(小菅監獄)と煉瓦工場が建てられた。当時の日本は鉄道や建物をはじめ西洋文化を必死で追い掛けていた。とりわけ建材として多く使われた煉瓦は作る技術がなかったため、輸入する傍ら指導者としてフランスから職人を呼び寄せ、受刑者に煉瓦造りを学ばせた。ほかにも世界遺産となった富岡製糸場や、利根運河の護岸工事など多くの技術者がヨーロッパ各地から招聘され日本の近代化に貢献した。

 日本で最初の煉瓦工場で生産された煉瓦は東京駅や横浜の赤煉瓦倉庫など関東各地の建材として出荷された。生産技術を学んだ受刑者は、全国各地の拘置所で技術を広げることになったという。この小菅監獄が後に現在の東京拘置所となる。

Part 2 途切れた街道の跡を辿って

 東京拘置所を後に先へ進むと、ほどなく綾瀬川に架かる「水戸橋」にたどり着く。江戸時代は江戸への侵入を防ぐ意味もあって橋桁で支えられた橋は少ない中、この橋は江戸城内濠の平川橋と同じような構造で、水戸藩が江戸初期に架橋したという。現在橋は車と歩行者を分けて元の位置のすぐ脇に架けられており、橋台の石積みだけが残されている。

 水戸橋を渡ると名前の由来と関係があると思われる神社がある。水戸黄門一行がこの辺りを通った時、親を殺された恨みで妖怪となった狸を退治した。子狸も退治されそうになった時お地蔵様が身代わりになった。これを知った水戸光圀が水戸橋と名付けたという言い伝えがあり、その地蔵像は少し南に下ったところにある「正覚寺」に元禄10年(1697)、光圀の生前に安置されているのだが、ここにも没後94年経った寛政6年(1795)に妖怪の代表格の鬼が彫られた石碑がある。この神社は明治2年に建立された小菅神社だが、もともとこの土地の鎮守だった田中稲荷神社だった。橋の袂の鬼が彫られた石碑のいわれは?

 旧道をさらに進むと左側に古墨田川の緑道と遭遇する。古隅田川はかって利根川の流末の一つで、豊かな水量をもつ大河であったが、中川の灌漑事業等により水量を失い、やせていった。近代に至っては、雑排水路として利用されてきが、現在は下水道の整備によって排水路としての使命を終え、荒川と中川を結ぶプロムナードとして期待されている。

 この辺りは荒川をはじめ、綾瀬川、古墨田川、中川と様々な川筋の変更や拡幅が行われたせいか、旧水戸街道がどこなのかが分かりずらくなっている。探索者としては肝心なところに標識があるとホッとする。

 この先にある本所上水への流量を管理していたものか、ここも古墨田川の名残で水門跡がある。江戸の六上水のひとつで、本所一帯の上水を担っていた。水戸街道と亀有で交差していることから亀有上水とも呼ばれた。

 亀有上水はさらに曳舟川とも呼ばれ、舟に縄をかけて人や牛馬が舟を引いた川であることに由来する。現在は暗渠(道路の下を流れる川)となり、亀有から四つ木まで南北延長約3キロメートルにわたる曳舟川親水公園となっている。亀有図書館付近には水遊び場、自然景観水路では、水生植物が植えられ、ザリガニも生息している。夏には、多くの利用者でにぎわっている。

 江戸期の後期から明治の初めごろにかけて行われた曳舟は、一種の水上交通機関ではあったが、舟を曳く動力が陸からの人力であるため、馬とか籠などの陸上交通機関の要素も含まれたものであり、当時曳舟は異色の交通機関として人気があり、江戸市中から下総、水戸方面へ行く、多くの旅人に利用されている。

 亀有の一里塚は、千住宿から1里、江戸日本橋から3里に位置する。一里塚は現在地から東へ10mほど先にあり、明治の末頃までは塚の跡が残っていた。現在は駅から徒歩5分ほどの葛飾区亀有1丁目28番地先に移されている。一里塚碑の隣には、助さん・格さんを従えた水戸黄門のモニュメントが建っている。

 荒川は名前のとおり「荒ぶる川」で、昔から洪水の被害が絶えなかった。明治時代の荒川は、現在の隅田川を流れて東京湾に注いでいたが、大雨が降ると水位が増えてたびたび洪水を起こした。特に1910(明治43)年の洪水は、広い範囲にわたり多くの死傷者を出した。現在の葛飾区が属していた南葛飾郡も7割が水につかり、亀有駅も壊滅的な状況だった。

江戸時代から何度も繰り返し行われてきた河川の改修工事のおかげで現在の亀有駅は、近代的に整備され「こち亀」でおなじみのキャラクターが私たちを迎えてくれるようになった。
 今回は探検をここで打ち切り、流山に「小金原展」を見に行くことにした。

Part 3 水戸街道と荒川放水路

 明治43年の洪水被害を契機として、荒川の洪水対応能力を向上させるために荒川放水路の基本計画が策定さた。荒川放水路のルート候補は、主なもので4つあったが、治水上の効果や実現性、宿場町として栄えていた千住町を迂回するなどの背景から、現在のルートが採用された。

 明治42年(1909)
 計画前の千住周辺の地図に現在の荒川放水路はなく、当然現在の荒川放水路に架かる橋も存在しない。

 大正2年(1921)
 この年から工事が始まった。放水路となる予定地から立退きが実施された様子だが、水戸街道はまだ地図上に記されている。

 大正10年(1921)
 開削順に水の引き込みが始まった。鉄橋工事が必要な所はまだ着工していないが開削作業により水戸街道はこの区間が消滅した。

 大正14年(1925)
 上流から水の流れが変わり、護岸工事を残してほぼ現在の形に近づいてきた。

 昭和5年(1930)
 護岸工事も終わり、一応現在の荒川放水路が完成した。