戦後の復興は、行政よりも先に地域がに立ち上がりました!

【創立!豊町町会】


 日本の全面降伏により終戦となり、国土は大きく様変わりしました。かつて牧であったことから居住者の少ない広大な土地が軍部の目に留まり、首都圏防空の拠点となった私たちの郷土は、解体された軍部の広大な敷地を再び私たちの手で開墾し、復興ののろしを上げました。開発が実戦に間に合わなかった戦闘機「秋水」の地下燃料庫の上も畑に変わっていきました。


 連合軍の占領下。国のあり方も定まらない中で、私たちの郷土では昭和21年に先達が新たなコミュニティを立ち上げました。、豊四季2区の部落から「豊町町会」が誕生しました。初代会長には高橋一成氏が就任し、現在の豊町東・西町会のほか南柏駅前までが町会の範囲で、およそ150世帯の構成だったようです。


 1947年(昭和22年)9月。関東地方や東北地方に大きな災害をもたらした台風はカスリン台風と呼ばれ、台風本体の勢力の割には降水量が多い雨台風の典型例とされています。千葉県でも4人の犠牲者を出しましたが、その4人は柏市(当時田中村)の住民でした。


 1951年(昭和26年)9月8日。日本政府はサンフランシスコ講和条約に調印し、1952年(昭和27年)4月28日に発効、正式に国家としての全権を回復しました。外交文書で正式に戦争が終わった日は1945年(昭和20年)9月2日ですが、講和条約発効まで含めると1952年(昭和27年)4月28日が終戦の日になります。こうして日本が再出発して


 昭和29年5月25日、四か町村の間に合併協議会が設置され、それぞれに懇談会を開催し世論の喚起に努めた結果、7月には柏町・土村・小金町・田中村の各議会が合併による東葛市設置を議決します。一方、伝統的に松戸市と関係が深かった小金町では一部に強い反対意見も残りました。  8月2日、千葉県議会は柏町・小金町・田中村・土村を廃して「東葛市」とし、9月1日から施行する議案を可決、新しい市が誕生することとなりました。

 昭和29年11月15日、「東葛市」は市の名称を「柏市」に変更しました。旧小金町の大部分が松戸市に編入されたことにより、市民の間から地域の再編運動がおこり、「東葛市」という名称にも疑問をいだき「柏市」と変更することになります。広大な北総台地の一隅に集落が点在していた柏地域も常磐線柏駅の開設とともに大きな変貌を遂げ、交通の要衝として県立高校や銀行が設置されるなど、活気ある商店街を持つ市街地ができつつありました。「柏」という名前はもはやかつての旧町名ではなく、新市に相応しい名称として周囲から認められる存在となっていたのです。


 後に柏市と合併する沼南町(当時は村)も、昭和30年3月30日に誕生します。千葉県の試案で同じブロックとされた手賀村と風早村、調査資料でも「手賀沼に面して同一形態の純農村であり、生活圏も経済圏も完全に一致し、客観情勢に従い合併の実現は確実 」と記載されるほどで、昭和30年合併当時の沼南村の人口は10,760人、1,773世帯でした。

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【柏市と共に町会も発展】


 明治以前、下総国葛飾郡に属していた当地域、現在の柏の中心市街地にあたる柏村・千代田村は水戸街道沿いにありながら、宿駅ですらありませんでした。明治2年、旧幕府領の牧を開拓する事業が始まり、4番目の入植地となったこの地には豊四季という地名が付けられました。そして明治6年に葛飾県、印旛県を経て千葉県に編入されました。


 明治23年。利根運河が全線通水。治水対策に優れていたオランダから、日本政府の顧問外国人技師として招いた土木技師ムルデル(1848~1901)が設計・工事を監督しました。蒸気船の運航は高い波をたてて護岸を破損させる恐れがあるとして荷の積み下ろしには艀を利用していたようです。


 明治29年。主に日立鉱山の石炭輸送に利用されていた鉄道を民間利用を視野に、日本鉄道土浦線(田端〜土浦間)が開業し、柏駅が設置されました。


 明治44年。東武野田線の前身である千葉県営鉄道(柏〜野田町間)が開業し、豊四季駅が誕生。写真は当時の利根運河を渡る同鉄道の汽車。


 昭和3年、現在の豊四季台団地の場所に、1周が1,600メートルと地方競馬としては最大級のコースをもつ当時東洋一ともいわれた柏競馬場がオープン。その形は半円のカーブを持つ一般的な競馬場とは異なり、長方形の角を円くしたようなきつめのカーブを持っていた。


 昭和5年、柏駅から競馬場までは、1キロ強の距離があることから、乗合自動車・ハイヤーが運行していました。

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【首都東京のベットタウンに!】


 昭和10年。鉄道網が当地に近代化をもたらしましたが、自然災害にはまだまだ弱い面も多く、特に市街地の中心部でも浸水に見舞われました。写真は現在の柏市中央1丁目のファミリーマート付近です。


 昭和13年。雨水対策が追い付かず、柏駅構内も浸水害に見舞われました。


 昭和17年頃、世界中に起こっている不穏な空気に日本も軍備を強化。首都圏の防空対策として、柏飛行場が作られました。


 戦況は次第に厳しいものとなり、軍部も本土決戦を現実のものとして考え始め、B29の爆撃に備えた邀撃部隊の養成に力を入れるようになりました。


 終戦間際になると、ほとんど体当たりに焦点を絞った戦闘機「秋水」の開発に躍起になっていたようです。ロケットエンジン搭載。10数分の飛行しかできない燃料タンク。数度の実験飛行も失敗に終わり実戦配備はされませんでした。


 敗戦により戦争の終結を迎えた中、手賀沼に待望の県営渡し船が誕生。この頃の手賀沼は水も澄んでいて、寒い冬は凍りつく朝もあり、氷を割って船を走らせることもありました。昭和39年(1964)までの11年間で、東京方面へ向かう行商のおばさんや学生たち、たくさんの荷物を運びつづけ、人々の足として親しまれました。


 いつまでも敗戦に落ち込んではいられず、地域の先輩たちはたくましく日本の再建に動き出しました。心なしか柏駅の様子も活気に満ちてきたようです。このような中で今の町会の前身である「豊町町会」が誕生するのです。

【スライド】

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