1st Report

北千住が街道の起点!(2018/10/08)
街道移動距離 0.6km 総探索距離 5.6km (脱線率 933.3%)

Part 1 街道の起点探し

 10/8(月) 水戸街道の起点を探しに一行は日光街道の最初の宿場である千住宿(北千住)に降り立った。江戸時代の交通網の起点は日本橋から伸びる五街道から始まり、その他の街道はこの五街道との接点が起点となっている。ただ奥州街道と日光街道は江戸-宇都宮間を共有しているため、千住宿は二つの街道の最初の宿場となる。

 国道4号線側の駅前通りを行くとすぐに旧日光街道の宿場町通りの交差点にぶつかる。ここを左に曲がると千住大橋を渡り江戸に向かい、右に曲がると草加宿に向う。

 宿場町通りを右に入ると、参勤交代の大名が宿営した千住宿の本陣跡の碑がある。千住宿は五街道の内の二街道分の交通量に加え、常陸国をはじめ水戸街道を利用する藩や、佐倉街道を利用する房総半島各藩など多くの藩が利用したため、本陣のほか脇本陣や55件の旅籠があったという。千住宿を含め江戸四宿(えどししゅく)と呼ばれた品川宿、内藤新宿、板橋宿の中で遊郭などの歓楽街は圧倒的に品川宿に多かったが、住民の人口は千住宿が一番多かったらしい。

 宿場町通り(旧日光街道)には、ここを通った諸藩の紋を足立区でプレートにして、街路灯に掲示してある。また江戸時代から栄えた宿場町とあって、江戸時代から続く絵馬屋さんや、古い建物なども残っている。

 我々だけでなく、遠い昔に思いを馳せて訪ねてくる人が多いとみて、ところどころにある公園などには石板に古刹や史跡などを描いたモニュメントがある。

 水戸光圀一行が休憩をしたといわれる旧跡に“槍掛の松”というところがこの近くにある。その名にちなんだ「槍掛け団子」の店が密かな名物となっている。

 水戸街道の起点はすぐに見つかった。街道の起点の碑には、亀有の新宿(にいじゅく)まで佐倉方面に至る佐倉街道と一緒なので、道標に水戸佐倉道と書かれている。

 先ほどの団子屋さんの由来でもある槍掛の松とは、「槍は戦の際、絶対に横にしてはいけない」という習わしから、休憩を「見事に横に伸びた松が丁度よい」ということで槍を立てかけて休憩をしたことから名所となった。

 明治時代までは千住宿のそばに荒川はなかった。しかし大正時代に入り、台風による洪水被害を防ぐために、新たな川筋を開削し放水路を大規模に拡幅した。そのため街道は工事区間が消滅しているが、その先に水戸佐倉道は続いていた。この地に昔から住んでいる地元の人の話ではここから見える土手の向こうに渡し船があったという。

Part 2 旧日光街道

 再び宿場町通りに戻り、今度は千住大橋方面を散策してみた。江戸時代は一般の人が旅に出るのは大変なことで、別れを惜しむ人が、それぞれの街道の、最初の宿場まで見送るのが習わしだったという。

 前述の江戸四宿(五街道の最初の宿場)は日本橋から八里以内にあり、ここ千住宿でもやっちゃば付近にある一里塚は八里の道標だ。この辺りから川岸までがやっちゃばの中心となる。

 「やっちゃば」の起源は江戸時代初期に遡る。千住は五街道の奥州、日光の両街道に加え水戸佐倉道という五街道に次ぐ街道が合流する陸運の一大基地というだけでなく、荒川と綾瀬川が合流する水運の要衝でもあり、海産物と農作物が集まってくるため古くから市が栄えた。

 江戸向けの物資を江戸まで運ばなくてもいいようにこのやっちゃばで買い取ってくれる「投師(なげし)」という商売が生まれた。築地の仲買人というと、今でこそ誰でも聞いたことのある職業だが、その始まりは「やっちゃば」の「投師」だといわれている。

 この宿場町通りの北側には各大名の家紋のプレートが掲示してあったが、この通りの南側にはやっちゃばで開業していた各店の跡地に屋号を示した木札が、あちらこちらに掲げられていた。

 千住宿にはまだ名所がある。「矢立て始めの地」で知られる松尾芭蕉の奥の細道の出発の地となっている。ほかにも近代では森鴎外の生家など隠れたスポットが多いところだ。

Part 3 浮世絵や絵図で見る千住

千住大橋の図
 千住宿の横を流れる荒川(現在の墨田川)は、武蔵国と下総国の境になっている。江戸時代の絵図や浮世絵には千住宿界隈を描いたものが多くあり、宿場町の様子を垣間見ることが出きる。この絵は第12代将軍の徳川家慶が、小金原の御鹿狩りに向かうため、御成船で千住に着いたところを描いているという。

名所江戸百景 千住の大はし(広重)
 足立区千住橋戸町と荒川区南千住を繋ぐ千住大橋。現在の場所から200mほど上流に架けられたのは文禄3年(1594)。寛文元年(1661)に両国橋が完成するまでは、隅田川に架けられた唯一の橋だった。
 千住は隅田川の水運を利用した木材の集積地でもあり、交通の要衝でもあった。

嶽三十六景 武州千住(前北斎為一)
 隅田川の上流で、荒川と綾瀬川とが合流するところから冨士を望む構図。富士の美しさを際立たせるために使われたのが、手前に描かれた水門。

富嶽三十六景 従千住花街眺望之不二(前北斎為一)
 飯盛り女の名目で許された遊女を置いた千住の花街(岡場所)から富士をみ、大名行列は富士を背にして進んでいるところから日光街道を下っているところか。

富嶽三十六景 隅田川関屋の里(前北斎為一)
 関屋の里は、「江戸名所図会」によれば、木母寺より北の牛田村の隅田川に面した一帯を描いており、疾駆する三騎の武士は、領国へ急を知らせる早馬か。

日光御街道千住宿 日本無頼楠橋杭之風景本願寺行粧之図(橋本貞秀)
 橋を渡ったところがやっちゃばで、その先が本陣。何度目かの橋の架け替えで、珍しく橋杭に楠が使われていたという。