亀有 ⇒ 松戸 (2018/12/09)
街道移動距離 6.7km 探索距離 8.3km(脱線率 123.9%)
Part 1 街道の分かれ道(新宿追分)
あとで調べてみると、敵の侵入を遅らせるために「鍵の手式」の防御を意図した造りになっているそうだ。またこの一角は驚くほど神社仏閣が多いのも、街道が分岐する場所でありながらそう広くない宿場町なので密集してしまったのかもしれない。
浄心寺のすぐ先で現在の6号線にぶつかる。今は博物館に保管されているが、数年前まではここに道標があった。
ここまでは水戸佐倉道だったが、ここから右に佐倉・成田へ向かう佐倉街道(成田街道)と、左に下総国・常陸国へと向かう水戸街道と、それぞれ単独の街道となる。
Part 2 下総国へ
石仏群のすぐ先に「浜街道踏切」がある。明治初期に一時的に水戸街道を「陸前浜街道」としているが、その呼称が定着していたころからある踏切なのだろう。 この線路はJR総武線と常磐線を繋ぐ貨物線で一日数本の貨物列車が通過するそうだ。
金町駅近くで再び6号線と合流。ここ武蔵国金町村(幕府領)には、江戸幕府により水戸道中の要所として江戸川の渡舟場を利用した「金町松戸御関所」が設置された。以後1869年(明治2年)に関所廃止まで江戸幕府の防備上の機能を果たした。
大通りをやり過ごし、再び旧道跡をたどると葛西神社入り口の門柱に遭遇する。創建は平安時代末期、元暦2年(1185年)。江戸時代初め、徳川家康が葛西神社へ立ち寄った際、古くから伝わる操り人形芝居の神事を見て大変感激し、奨励のため天正19年(1591年)に玄米十石を扶持として与える御朱印を下賜した。この縁により、葛西神社において徳川家康を祀ることとなる。立身出世や事業成功の象徴として今なお敬意を集めている。
葛西神社は祭囃子発祥の地と言われている。葛西神社の神官、能勢環(のせたまき)が敬神の和歌に合わせ、音律を工夫して和歌囃子として村の若者に教え、御神霊をお慰めしたのがその起源とされている。毎年各地で葛西囃子代表者の選出会が催される事となり、選出された者を代官自ら神田明神の将軍家御上覧祭りに推薦した事により大流行した。やがてそれらの技能を身に付けた神田などの氏子達の手でお囃子が行われる様になる。以来、お囃子は盛んの一途を辿り、神田囃子、深川囃子、また関東周辺にも広まり、秩父、川越、石岡、また東北地方、東海地方の囃子の流儀を生んでいる。但し、葛西囃子は嘉永年間浦賀に黒船が渡来した事件と相まって一時衰退を見せる。
松戸に渡る葛飾橋から250mほど上流に金町関所跡の碑がある。1822年(文政5年)の『駅逓志』の記録によれば、五街道・四往還のうち東海道・奥州道中に次ぐ三番目の交通量があり、宿場に常置する伝馬の人数も五街道と同数とあり、かなりの重要な役割を担っていた。
Part 3 小金野鹿狩之記
吉宗 1725年(享保10年)、1726年
家斉 1795年(寛政7年)
家慶(慶喜も同行) 1849年(嘉永2年)
軍事訓練も兼ねたという小金原の「御鹿狩り」は4人の将軍が実施している。記録では千住大橋で下船したのは家慶だけなので、この絵は嘉永2年3月18日の御獅子狩りを表したものだろう。
上総、常陸、武蔵からも獲物をこのお狩場に追い込んで狩をした。鹿狩と言っても、獲物には猪等、鹿以外の動物も多数含まれている。 狩には将軍の娯楽だけではなく、軍事演習と将軍の示威、農作物に害をおよぼし小金牧の馬と餌が競合する草食動物、馬を襲う野犬の駆除等の目的もあった。
上総、常陸、武蔵からも獲物をこのお狩場に追い込んで狩をした。鹿狩と言っても、獲物には猪等、鹿以外の動物も多数含まれている。 狩には将軍の娯楽だけではなく、軍事演習と将軍の示威、農作物に害をおよぼし小金牧の馬と餌が競合する草食動物、馬を襲う野犬の駆除等の目的もあった。
狩場では御立場を拠点として狩を行った。御立場は高5丈(約15m)、方180間(約320m)の台状に土を盛った山で、将軍の居場所にふさわしい調度品があった。跡地近くの五香公園に碑があり、少し離れてバス停御立場がある。金ヶ作に騎射立場の地名が残る。