松戸 ⇒ 南柏 (2019/01/20)
街道移動距離 9.5km 探索距離 11.1km(脱線率 116.8%)
Part 1 幕府直轄の松戸宿
2019/1/20 新春のさわやかな光を浴びて松戸市民劇場前から歩き始める。水戸街道物語の観点からすると、松戸宿までが今でいう中央官庁である道中奉行が整備運用していた。そのため治安はもとより、家康以来の運河整備の要でもあり経済面でも要衝となっていた。ここではお狩場やその周辺の史跡も見ておきたいところだが、次回番外編を企画することにして街道を進むことにした。
馬橋駅のすぐ近くに寄り添うように萬満寺と王子神社がある。萬満寺は、建長8年(1256年)創建。本尊は阿弥陀如来で、国の重要文化財に指定されている鎌倉時代作の金剛力士(仁王)像があり、「仁王さまの股くぐり」で知られている。
Part 2 小金宿へ
蘇場鷹神社からは6号線を離れて再び旧道へ。いきなり車両の通行量が激減した。荒れ地だった小金牧に近づいてきたためか、道は蛇行を繰り返し何度か6号線をまたいでいる。ながく曲りくねった道が、いかにも旧道らしい。
小金宿に入ると間もなく一月寺の前にさしかかる。「一月寺(いちげつでら)」は、禅宗の一派の普化宗の関東総本山だという。伝承では正嘉年間(1257年 ? 1259年)に金先古山禅師によって創建され、徳川幕府の庇護もあり隆盛を極めた。
昭和30年代(1955年 ? 1964年)、妙縁寺総代(後に法華講連合会第二代委員長)であった佐藤悦三郎の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗、「いちがつじ」と読みを変更して現在に至る。
成田街道の道筋でもある小金宿には旅籠が多く、鈴木家は代々惣右衛門を名乗り、玉屋の屋号で徳川時代後期の旅籠の原型を留めている。当時の小金宿では鈴木、月見里、綿貫、湯浅、芦田、安蒜、大熊が役職に従事していたが、いまだ姓は現存している。
小金の宿は水戸街道の4番目の宿場になるが、江戸を出て一日の行程にあったため、諸藩の大名が松戸宿を本陣としたのに対し、水戸徳川家の本陣は小金に置かれていた。小金宿の人々にはいまもある種の格式と誇りが受け継がれているという。
玉屋を過ぎ少し北小金駅に向かうと、左に東漸寺がみえてくる。当初、根木内(現在地より1キロ北東)に開創した。この後約60年後の天文年間(1532年 - 1555年)、現在地に移され、江戸時代初期に僧侶の養成機関である檀林となり、のちに関東十八檀林の1つとされ広大な境内に、多くの建物を擁した。
大改修が成就した享保7年(1722年)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展した。明治初頭に、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となった。 江戸時代に幕府の擁護を受けた東漸寺も、廃仏毀釈等で、神殿、開山堂、正定院、浄嘉院、鎮守院などの堂宇を失った。また、学寮およびその敷地は、地域青少年の育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)となった。
Part 3 幕府領の小金牧
再び6号線にぶつかり、根木内歴史公園へ行く。根木内城の歴史は文献がないため明らかではないが、通説では小金城に移る前の高城氏の本城とされる。(1462年に高城胤忠が築城したとも、1508年または1525年に高城胤吉が築城したとも言われるが諸説あり)。なお、根木内城以前には栗ヶ沢城(松戸市立根木内中学校及びユーカリ交通公園あたり)を拠点としていたとされる。1537年、高城胤吉によって築かれた小金城に移ったため、その後は支城になったと思われる。
旧道は柏市に進む。最初に見えてくるのは、明応3年(1494)、東漸寺開山・經譽上人の退隠所として創建された行念寺。昭和初期まで無住で、僅か11軒の檀家によってよく外護されてきた。昭和10年、先代・吉井泰順上人が住職となるに及び、寺務を務め毎月回向に廻り、漸く戦後本堂を復興、庫裡を木造で新築した。近時檀家も増加して今日に至っている。
南柏駅前にたどり着くと右手に今谷上町の八坂神社が見えてくる。ここは徳川吉宗の新田開発奨励により享保9年、小金上町の人々が上野牧を開拓し今谷新田としたことから、小金町の八坂神社より分祀されたとされている。